「あの、社長、今の方は?良かったんですか?私ならすぐにお暇しますけど」 部屋に着くと、陽南子はその豪華さに思わず目を見張った。 上階にあるスイートルームは、各フロアに2室ずつしかない。つまり今現在、この階ともう1階上は、ほぼ朝倉の関係者の貸切となっていることになる。 それも、このホテルのスィートは1泊50万は下らない高価な部屋だと聞いている。もちろん、彼女がそんな部屋に入ったのは生まれて初めてのことだった。 「いや、アイツなら大丈夫だ。気にしなくていい。それよりそこのドアからサブ・ベッドルームに入れる。その奥がバスルームだ。顔を洗ってきなさい。良かったらシャワーを使っても構わないよ」 陽南子は恐縮しながらも、お尻をバッグで隠すように後じさり、ドアの中へと身を隠した。最後に彼女がしたカニ歩きを横目で見ていた大地が、必死で笑いを堪えていることなど、構う余裕さえなかった。 「ああーん、もう最低!どうすりゃいいのよ」 教えられた通り、大きなベッドのある寝室の向こうに2つのドアがあった。開けてみると、一つは洗面台の付いたトイレ、もう一方はシャワーブース付のバスルームだった。中の仕切りにもう一枚ドアがあり、結局この二つは繋がっているのだが、スペースとしては独立した造りになっている。 陽南子はトイレに入り、便器の蓋の上に座り込むと、がっくりと頭を抱えた。 選りによって、朝倉社長に最悪の場面を見られてしまった。それも見合いの相手といる時に。 彼女ははっとして唐突に立ち上がった。 「見合い。見合い相手を忘れてきちゃった…」 自分のお尻丸見え事情に気を取られるあまり、連れがいることが頭から抜け落ちていた。あの様子では、もう二度と会うこともないだろうが、できれば今日の事は巧いこと誤魔化して穏便に伝えてくれればいいのだが。 さすがにシャワーまで使うような厚かましいことはできず、陽南子はドレッサーで顔を洗って化粧を落すに留めた。さすが高級ホテルのスィート、アメニティーグッズが充実していて、化粧の類を何も持ち歩いていない彼女にはありがたい。 その後、とりあえず着ていたワンピースを脱ぎ、破れた部分をひっくり返して見てみる。スリットの上の部分の布がぎざぎざに裂け、とても修復できるような状態ではなかった。 これ、お気に入りだったんだけど、仕方がないか。 陽南子は諦め顔でブルーのワンピースを丁寧に畳むと、バッグの中に押し込み、ついでに伝線しているストッキングも脱いだ。 そして派手なパンティーとブラジャー姿のままで洗面台に片手を付いて、鏡の前に身を乗り出した。 ああ、派手にやってくれちゃったなぁ。明日腫れなきゃいいけど。 側の棚にあったタオルを一枚拝借して水で濡らすと、熱を持ち始めた頬に当てる。見合いを断られたことは適当に説明できるとしても、この顔はどう見ても誤魔化しきれるものではない。 仕方がない、最初から正直に話すしかないな。 赤くなっている左の頬に指で触れて顔を顰めながら、陽南子は腹をくくった。また祖父や伯母からお小言をもらうことになるのだろうが、これも身から出た錆ということで止むを得ない。 ちょうどその時だった。 「陽南子さん、入るよ」 ノックの音と共に突然ドアが開き、鏡越しに、紙袋を持った大地とまともに目があってしまった。 「ええっ、ちょちょっと待って」 慌てた陽南子は振り向きざまに、咄嗟に手にしていたタオルで前を隠した。しかしながら、鏡に写った自分の後ろ姿が大地から丸見えなのに気づく余裕がない。 二人は言葉もなく、その場で互いを見つめながら、固まったように動けなくなっていた。 大地の容赦ない熱い視線が胸元からゆっくりと下がり、足のラインを辿るのを感じながら、彼女は盾にしたタオルをきつく握り締めた。彼に聞こえてしまうのではないかと思うほど、彼女の心臓はドクドクと大きな音で脈打っている。 永遠に続くかと思われた、その沈黙を先に破ったのは陽南子だった。 「ちょっと、何見てるんのよ!服を着るからあっちに行ってて」 その言葉にはっと我に返った大地は、彼女から顔を背けながら、持っていた紙袋を自分の足元に置いた。 「すまん、鍵がかかっていなかったから…。着るものがないだろうと思って、下で見繕わせたんだ。良かったら着てみなさい」 彼はそう言うと、まだ身を固くしている陽南子を再び見ることなく、そっとドアを閉めてその場から立ち去った。 「びっ、びっくりしたぁ…」 彼の気配が部屋から完全に消えてから、陽南子はその場にへたり込んだ。 ついうっかり、鍵をかけ忘れたばかりに、とんでもない姿を晒してしまった。 絶対に、今日は厄日だ。 もしかしたら、仏滅で三隣亡で、13日の金曜日かもしれない。 実際、今日はまだ4月の初め、見合いや合併の調印が行われるような大安吉日のお日柄なのだが、羞恥のどん底に沈んだ今の彼女には、到底そんなおめでたい日とは思えなかった。 ホテル内のアーケードにあると思われる、高級そうなお店の袋から出てきたのは、これまたご大層な箱だった。その包みを慎重に剥がし、箱を開けた陽南子は思わず「うーん」と唸った。 そこにあったのは、薄手のスーツ。それも彼女なら絶対に選ばないと思うような、真紅と黒の組み合わせだ。 赤も黒も嫌いな色ではないのだが、どうも彼女には着辛かった。似合うに合わないは別として、彼女が濃い色や原色を着ると、その体格ゆえに、どうしても人より目立ってしまう。彼女の場合、それは往々にして良い方には作用せず、いわゆる悪目立ちしてしまうことが多かったからだ。 高校の時に身長が170センチを超えて以来、「デカイ」とか「大女」と言われることには慣れたが、自分からそれを強調しようとは思わない。彼女だって本心では、自分が普通の背丈だったらどんなに良いだろうと思っている。せめて人並のサイズだと、女性たちの輪の中に入る時や背の低い男性と並ぶ時も要らぬ気を使うことがないからだ。 「しかし、まぁ、今日は非常事態だしなぁ…」 とにかく、着ていたワンピースが修復不可能な状況では、これしか着るものがないのだ。好き嫌いを言うのは贅沢というものだろう。 陽南子は箱から服を取り出すと、身に当てて鏡を見た。 サイズ的には大丈夫そうだ。 布地の手触りからして、かなりの高級品だろう。彼女の持っている僅かなワードローブたちとは比べ物にならないようなお値段の品に違いない。 よく見ると値札は付いておらず、サイズタグの類はすべて取り除いてあり、すぐに着られるようになっている。 それは店が気を回したというよりも、大地の気遣いに違いなかった。 届けられたスーツを着た陽南子は、周囲をうかがいながらおずおずとサブ・ベッドルームを出たが、そこには誰もいなかった。 リビングのテーブルの上にメモが置かれており、大地が急用で先にホテルを出なければならなくなったことへの詫びがしたためられていた。 チェックアウト時にフロントに返しておいて欲しいとキーも側に添えられている。 それを読んだ陽南子はほっとした反面、何となくがっかりしている自分に気付いた。 最初は躊躇っていたスーツだが、着てみると思いのほか身に合った。赤と言う色がこんな風に自分を引き立たせてくれるとは思ってもいなかった彼女は、着ているところを見せながら、大地に今日の親切の礼を言いたかったのだ。 「自意識過剰だよな」 そんな自分に陽南子は自嘲気味に笑った。ちょっとした知り合いで、成り行きで助けただけの女がどんな格好をしたところで、彼がそれに反応するはずもない。 朝倉の兄弟といえば、未だ独身で、華やかな女性遍歴が雑誌を飾るセレブな男たちだ。弟ほどの派手さはないが、大地とてそちら方面では、百戦錬磨のツワモノと考えて間違いないだろう。 彼は、本来ならば、自分のような人間がおいそれと側に寄れるような類の人種ではないのだ。 「さて、帰るかな」 自宅では今日の様子を知りたい祖父母が、彼女の帰宅を今か今かと待っていることだろう。こうなったら正直に、できるだけショックを和らげるよう話すしか方法はあるまいが。 それを考えると気も足取りも重くなる、陽南子だった。 HOME |